街の区々、密と蜜
「艶やかな不安の光沢」 第2回
- 落語
林家 彦三
2026/04/01
たとえばバルザックの『ゴリオ爺さん』の描写、その邦題のやや間抜けな、すきま風の通るようなパリの街や小道具の描写は、まさしく区々たるものではないだろうか。一巻読み終えたあとの、今度は大都市を書き割りして見栄を切ったあの大きな目線は、読後感として残っている。これほど、区々たる、あるいはまちまち、という表現が似合う小説はないと思う(こんなことを言っても落語家だから取り合ってもらえないこともわかっている。私こそもっとラスティニャック流に野心をもって、挑まなければならない)。――「雨が降るとカプチン僧が出てくる仕掛けになっている晴雨計とか、どれも金線のはいった木の額縁に入れた、食欲も何もなくなりかねない下手くそな版画、銅を象嵌した鼈甲の飾り框つきの掛時計、緑色の陶器製ストーヴ、埃と油が一体となっているアルガン式ケンケ燈、蝋引きのテーブルクロスをかけてあるが、それがいかにも脂じみているので、食事だけ契約して通っているあるいたずら好きな男が、鉄筆がわりに指を使って自分の名前を書きこんだほどの、細長いテーブル……」(平岡篤頼訳)
もちろん噺家としては、これですましていてはいけない。わが国の人間喜劇からも、同等に何か引用すべきだとすれば、私は「蒟蒻問答(こんにゃくもんどう)」の台詞をここに引きたい――「高麗縁の薄畳は雨漏りに黄ばみ、安信の描きしか格天井の雲竜は、鼠小便にてご紛失となり、金泥の丸柱は剥げわたり、運慶の彫りか欄間の天人は蜘蛛の巣に閉じられ、幡天蓋は朝風に翻り、正面には釈迦牟尼仏、右手の方には曹洞禅師達磨、左手の方には普賢菩薩、三体の尊像を安置し奉れど、いずれも塗りは剥がれ煤をあび……」(林家正蔵「こんにゃく問答」)
描写には意味があるらしい。爺さんのいる下宿屋のがらくたのまちまちは、まさしく、ひいてはそれがしまいには鳥観図(ちょうかんず)になって山際に飛び立つ。問答のための区々たる説明は、それが「真ッ赤ないつわり」のための仕込みであり、身振りでも手振りでもない、あくまでも口頭の、描写による前支度である。下谷の山崎町を出まして、三枚橋から上野広小路、御成街道を五軒町へ……というような道中付けと言われる「黄金餅(こがねもち)」の言い立てや、たとえば手毬歌「高知 町づくし」の、高知の松ヶ鼻/番所を西へ行く/農人町/菜園場/新堀/魚の棚/紺屋町……などの文句も、それはただ地名を並べただけではない、ある程度の時間がかかるまちがいにも似た密度が、そこにあるのではなかろうか。そこには活字ほど区々とした描写は登場しないが――もっとも、活字こそ区々たるものだ――その性質の違いはあれども、想像させる町や街の密度は、ひいては洒落や地口(じぐち)の効能とは、その言葉のすきまにこそ巣食うもので、それがカプチン僧でも曹洞禅師でも、アルガン式でも高麗縁でも実際の意味以外の煤をまとった味わいが細部を組み立て、そのうちにまちまちは、みつになり滴り、このたびはたまたま美酒に与れた些末事のミツバチたる私であるが、思い返せば、かの感染病禍中に三密という字面だけはどこか仏教風の教えを、三蜜と誤記していた街角の掲示物をふと思い出し、密と蜜という、字義においても全くの関連のないらしいこの二つの字の間違いがあらわれ、鞭撻(べんたつ)をうけるところの茶道の師が、日本文化とは、もしかしたら密なることをこそ軸に成立しているのかもしれない、とその稽古の自粛中にこぼしていたことをはじめ、味気のない秘密をなめていたような生活を強いられていたあの頃に勘違いされた蜜の香りがかさなり、さまざまなことを思い出す、春、三月。区々たるものへの愛着こそを静かに思い出そうとする、この季節、私の目鼻は皮肉にも花粉をあつめる。
しかし、どうだろう。考えれば、五十音順で繰り下がって、まち、の次は、みつ、となるから、これは音声語学的にものっぴきならぬ、じつに密接な関連性があるのではないかと疑いながら、まちのまちまちと、みつとみつ――喉をひらかない、やさしいマ行の無駄に唇のふれあう言葉の色気を余して、美声のためには毎朝これをお湯に溶かして飲むと良いというまじないめいた治療法の勧めとともに姉からの土産で貰ったタイ産のロンガン蜂蜜をその教え通りに熱湯に溶かして茶道よろしくの作法で自服し、その密度も蜜度もうすまった見た目には一人前にウイスキー色の自家薬籠によってうれない噺家のか弱い咽喉にほの甘い潤いが与えられる、朝七時である。

▼林家彦三 X
(毎月17日頃、配信予定)
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