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第十五話 「キモノの呪い」

「令和らくご改造計画」

第十五話 「キモノの呪い」

絵:大熊2号

三遊亭 ごはんつぶ

執筆者

三遊亭 ごはんつぶ

執筆者プロフィール

#1

 落語という表現技法は、「奇跡の産物」であると僕は信じている。

 一人芝居という枠で見れば、世界にも似たようなものは存在する。一人のパフォーマーが全身を使って何役もの会話劇を見せることもあれば、さらにスタンドアップコメディの途中で左右を向き、複数の人物を演じ分ける表現なども存在する。けれども、落語のように、これほど多くの演者と長い歴史を持ち、一つの文化として洗練されている例は、なかなか類を見ない。

 では、なぜ落語だけが、このような芸能として確立されたのだろうか。これは、一人芝居と日本語との相性や、当時の庶民文化、寄席という空間など、いろいろな条件が奇跡的に重なった結果ではあると思う。

 だが、何よりも大きかったのは、落語が生まれた時代の日本に「着物」と「正座」という、この二つの文化が存在していたことではないだろうか。

 まず「着物」は、身体のシルエットをうまく隠してくれる。演者がどんな体型であっても、観客の想像の中では、大人にも子供にも、男にも女にも、町人にも侍(さむらい)にも見える。どんな背格好で、どんな衣装を身につけた人物にでも、自由に姿を変えることができるのだ。

#2

 そして、「正座」をすることで、演者の腰から下は、いわば画面の外へ消える。実際の落語家は、ずっと座布団の上に座っている。だが目線や上半身の使い方によって、登場人物が立っているようにも、座っているようにも見せられる。

 もし演者が椅子に腰掛けていたり、舞台の上に立っていたりすれば、どうしても実際の身体の状態に表現が引っ張られてしまうだろう。でも正座をすれば、観客は常に演者の腰から上だけを切り取ったカメラのアップ映像を見ているような状態になる。

 そのため、実際の演者がどう座っているかは関係なく、登場人物の立ち方や座り方、身長や体格まで、観客の想像に委ねることができるのである。つまり落語は、「着物」によって身体の輪郭を曖昧し、「正座」によって下半身を消すことで、観客の想像力を最大限に利用する芸なのだ。

 上下(かみしも)を切って一人で何役も演じる技術と、着物と正座という当時の日本の文化的背景。その相性がぴったり一致した結果、落語は世界でも類を見ないほど洗練された一人芝居へと成長した。まさに、奇跡的な組み合わせである。

 しかしながら、それと同時に落語は「一人で会話劇を表現する技術」をある種、独占してしまっているようにも思う。例えば、お笑い芸人の方がネタの中で左を向き、右を向き、一人で二人の会話を演じたとする。それを見た人は、おそらく、「落語みたいだな」と思う。

 さらに、その表現を突き詰めて登場人物を増やし、物語を長くし、仕草や目線を洗練させていけば、どうなるのか。おそらく、最終的には落語に近づいていくだろう。けれども落語には「プロ」という存在がいる。プロの落語家ではない人間が落語を演じ、それでお金を取ることに対しても、業界内にはそれなりに厳しい空気がある。

 そのため、別ジャンルの人が一人芝居を突き詰めていったとしても、「それ、落語じゃないか」と言われてしまったら、それ以上は前へ進むことができない。結果として、“落語のまがいもの”のような扱いを受けかねない。

 最高峰まで技術を磨けば、落語へ近づく。しかし落語へ近づけば、落語家ではないことを指摘される。