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第十五話 「キモノの呪い」

「令和らくご改造計画」

#3

 では、その代わりに、この「奇跡の産物」を独占している落語家たちが、それを使って、ありとあらゆるジャンルの物語や表現に挑戦しているのか。

 残念ながら、そうとは言い切れない。世界でもトップレベルにある一人芝居の技法を持ちながら、世界に対して、その可能性を完全に有効活用できているわけではないだろう。

 ではなぜ、そうなるのか。

 これはやはり、着物にあるのだと思う。落語という「表現技法」と、それが生まれた当時の「文化的背景」は本来、切り離して考えられるはずだ。しかし、着物を着ているために、落語家の意識までそちらへ引っ張られ、落語を「着物が日常にあった時代の物語を演じるための技法」だと錯覚してしまう。

 だが本来、この表現方法は、時代劇だけを演じるためのものではない。令和だからこそ表現できる物語や、江戸時代には存在しなかった可能性を孕(はら)んでいるはずなのである。

 実際、平成や令和を舞台にした新作落語を、着物姿で演じても特に違和感はない。サラリーマンを演じれば、観客の想像の中ではスーツを着ている。医者を演じれば白衣に見える。

 そもそも、古典落語には狐や狸が出てくる噺もあるが、別に狐や狸が着物を着ているわけではない。演者が着物を着ているからといって、登場人物まで着物姿である必要はないのである。

#4

 着物は、「着物を着た人物」だけを描くための衣装ではない。

 落語が生まれた当時、たまたま日本人の標準的な衣装だったものが、身体のシルエットを隠し、観客の想像を邪魔しないという、落語にとって極めて都合の良い形をしていただけなのだ。

 だから当時の落語家たちは、何百年後の令和の落語家が、まさか相変わらず同じように着物を着ているとは思っていなかったかもしれない。「数世紀後の未来には、さらに落語に適した衣装が開発されているだろう」と考えていたかもしれない。

 だが、令和の落語家は、いまだに着物を着ている。それは結果的に、着物以上に落語に適した衣装が現れていないからだろう。着物が優秀すぎるのである。その結果、「着物の機能」ではなく、「着物が生まれた時代」のほうへ、落語のベクトルまで引っ張られている。“奇跡”を独占するにしては、表現の分岐が少ないのではないか。

 念のための補足だが、古典落語を愛することは、もちろん素晴らしい。古典落語の奥ゆかしさは、他のエンターテインメントではなかなか真似できない。僕もいまだに、落語を聴きながら眠りについたりしている。古典落語の世界は美しい。

 ただ、衣装が着物であるからといって、落語という「技法」まで、着物が生まれた時代に閉じ込めておく必要はないのだ。本来は表現の可能性を最大限に広げてくれる衣装だったはずなのに、落語家たちは「キモノの呪い」にかかっている。

 数百年前、落語を発明した先人たちは、ここに一体、何を思うだろうか。