講演依頼への葛藤 ~噺家の矜持

柳家小志んの「噺家渡世の余生な噺」 第4回

三、再び積まれた積み木

 人生経験というのは、無駄にはならない――そう信じていた。「積み上げた積み木は、崩れてもまた組める」。

 だが、うちの師匠はそう言わなかった。

 「この世界では、それまでの経験は通用しない。特に君は勤務期間が長い。余計な理屈は抜きにして、先輩の言うことを聞きなさい」

 そうして、私は積み木を封印した。それでも憧れはあった。十代で芸の世界に入った者たちには、私にはない純度がある。もう手に入らない“肩書”が、羨ましかった。二世噺家は「食わず嫌い」の対象になることが多いが、そういう環境で育った二世タレントの芸人気質を羨むこともあった。

 二ツ目に昇進すると、次第に講演依頼が来るようになる。「講話+落語一席」という形。積み木――過去の経歴を、噺家としての新しい土台の上に、また積み上げることになった。

 それが、自分の“売り物”になってしまったのだ。

四、唯一無二の“売り物”とは

 講演先の過去の講演者を見れば、噺家が非常に多い。理由は明白だ。ターゲットはシニアで、噺家の名前は関心を集めやすい。専門家の講演は難解で聴衆が困惑しがちだからだ。

 噺家が「笑いと健康」と題して講話し、落語で締めるスタイルは、集客も期待でき聴衆も楽しめる。しかし、多くは「笑いは、健康に良いと言われています。どうぞ笑って帰ってください」という内容で、得意の落語でお茶を濁す。

 だが、私はそれで良いとは思わない。それでは、ただの余興だ。

 私は違う。「なぜ笑いが健康にいいのか」と「それを裏付ける理由と、具体的な事例」をきちんと笑いを織り交ぜて講話する。元介護士や福祉現場出身を名乗る噺家も稀にいるが、その履歴を見る限り、私の経歴には遠く及ばない。そういう者と同じ講演料で並べられるのは、やはり釈然としない。

 それに講演料そのものにも腑に落ちない点がある。専門職の講師には、高い報酬が支払われる。一方、芸人へのギャラは安い。国家資格とは国が認めた専門家の証だが、芸人はたとえ真打でも、業界内資格ということなのだ。あくまで素人講話とみなされる。

 いくつかの国家資格を有している私は、講話に関しては、専門家としての講師料をいただけないかと尋ねた。だが、返ってきたのは、「芸名での依頼ですから、芸人枠になります」との答えだった。ならば、講話は本名、落語は芸名でどうかと提案した。だが、それも「集客に不安があるから」と却下された。

 一方で、医師や学者などの専門家が本名で講話を行い、趣味の落語を素人高座名で添える場合、専門家の本名で講演料を満額受け取っている。私は、講話も落語もプロとして講演を引き受けているにもかかわらず、芸人として一括りにされる。

 まるで、昔いた職場での話を思い出す。複数の資格を持っていても、手当は一つ分。職務に使うか否かに関係なく、「資格があるならやって当然」という理屈がまかり通っていた。

 ああ、この国では「持っている者は使われる」が常識なのだと、改めて悟った。