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残された街と残された人と

「二藍の文箱」 第6回

野暮天高校生

 お稽古に通っていた当時、ボケないようにと、お師匠さんは一行日記をつけていた。

 ある日、師匠宅に稽古に行くと、日記帳をひらいてなにやら書いてる。「ちょっと待って、わすれないうちに日記つけちゃうから」と。鉛筆を手にした師匠は、筆圧こそ強くはないが上品な筆跡で「司さんがきて、いろいろとしてくれた」と、まだ荷物をおろすかおろさないかのうちに、そう書いていた。

 実際、世界湯というお湯屋を曲がった路地の長屋から外に出ると、豆腐屋が自転車の荷台に商売物を置き、喇叭(らっぱ)を吹いたり、少し行くと持ち帰りのおでん屋があったり、すぐ目の前の甘酒横丁におつかいに行くのと、小唄の稽古はふたつあわせだった。

 ちなみに甘酒横丁には、三代目桂三木助や十七世中村勘三郎が贔屓(ひいき)にした煎餅屋・草加屋が、いまだにその味を守っている。

 わたしが人形町のお師匠さんのところに通うようになったのは、2008年(平成20年)の頃だと思う。

 懐かしく甘酒横丁の銘居酒屋・笹新の横を入っても、今は世界湯もなければ住まいだった長屋もない。もう三味線の音は聞こえない。そんな感傷にひたれないほど、街は変わっている。それは街の宿命でもある。

 人形町に通うそれ以前に、小唄の稽古をはじめたのは1995年(平成7年)だか1996年(平成8年)だか、高校生の時のことだった。稽古場と歯医者は近い方がいい。そんな言葉は後年知るが、地元蒲田の小唄の稽古場に通いはじめた。

 落語家になる前に落語を喋ったことはないが、落語家になるんだから、小唄のひとつも歌えたらいいだろう、と。まぁ、そんなことを考える、本格的におかしな高校生だった。

 それまでは、地元大田区にある中学までしかない小中一貫校で育ち、その学校の仲間や先生、空気に馴染み過ぎて、その反動か高校はほとんど行っているだけで3年間がおわってしまった。

 なので、クラスメイトが気合いを入れる学園祭なんかも、「はい、ご苦労さん」てなもんで、ほとんど関わっていない。クラスにこういうやつがいると、どうも締まらない。まとまらない。青春を満喫したい同級生には、さぞ厄介だったと思う。

 放課後、学園祭の準備が佳境に入っても「では、小唄の稽古がありますので、お先に」と、ひとり三味線を手に提げてそそくさと帰って行った。そういう、高校生。

 全く、鼻持ちならないやつだ。