残された街と残された人と

「二藍の文箱」 第6回

残された街と残された人と

人形町、世界湯の角を曲がれば、お師匠さんがいた(版画:ひびのさなこ)

三遊亭 司

執筆者

三遊亭 司

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テープレコーダーの向こうのやさしさ

 人形町の師匠の声を懐かしく聴く。

 師匠といっても、落語家ではない。人形町の師匠はわたしが最後についた江戸小唄の師匠で、もう、かれこれ15年ほど前のはなしになる。

 今年10月の日本橋での月例会、「日本橋つかさの会」に『庖丁』を出した。この噺、佳境で小唄『八重一重』を歌いながら、友人に頼まれて、その友人のかみさんを口説くのだが、この小唄がなかなか難しい。

 はじめてこの噺を手がけた時に、お師匠さんに稽古を頼み、それを吹き込んだテープがまだ手元に残されている。ちなみにわたしたちの口にする「お師匠さん」は、「おしょさん」と「おしさん」との音の間を取る。

 お師匠さんは、東京の五花街のひとつ、芳町の元地方(じかた)──お座敷で主に三味線を弾く芸妓──で、わたしが稽古に通っていた当時、齢八十の半ばであったはず。お師匠さんは、世界一周の途中で日本に立ち寄ったドイツの飛行船、ツェッペリン号をその目で見たと言う。1929年(昭和4年)のはなしだ。

 それでも元がお座敷に出ていたということもあるのか、「二十代が4人いると思え」というネタを地でいく、実にチャーミングなお師匠さんだった。

 「あなた、歌奴さんのご一門なの?」

というはなしから、人形町の玄冶店(げんやだな)に、末廣という寄席があった時分のはなしになった。

 「路地から楽屋に入っていくんだけど、生意気な顔して歩いてたわよ」

なんていうはなしは、それを見たひとにしか言えない。人形町末廣は、いまもある老舗の毛抜き屋『うぶけや』の並びにあり、わずかに石碑に『寄席 人形町末広 跡』としてある。変わりゆく街にも、わずかにそれを惜しむひともいたということであろう。

 そんな玄冶店に一軒残った料亭・濱田屋で、一門の先輩三遊亭歌橘師匠が真打披露のお礼にと、大師匠圓歌を招待し、番頭を勤めたわたしも御相伴にあずかった。その折、お座敷の姐さん方に、人形町のお師匠さんに小唄を習っているというはなしになった。

 「あら!? 久松姐さんお元気?」

 師匠は久松という名で地方を勤めてらした。落語に出くるような世界が、十数年前にはまだあった。残された街もそうだが、残された街のひとたちがまだそこにいた。