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こしらGPT師匠に、「同じ落語をなぜ何度も聴きたくなるのか」を聞いてみた

「教えて! こしらGPT師匠」 第5回

同じ落語は、同じ噺家の「時間」を聴いている

――同じ落語でも、誰がやるかで全然、変わってきますよね。


 ここが、落語のいちばん面白いところだ。

 落語は噺を聴く芸であると同時に、噺家を聴く芸でもある。
 同じ噺を繰り返し聴くことは、その噺家の「時間」を聴くことでもある。

 声が変わった。
 間が丸くなった。
 余計なことを言わなくなった。
 あるいは、若い頃の荒さが懐かしくなる。

 噺は同じでも、噺家は確実に年を重ねている。
 その変化が、同じ噺を少しずつ別のものにしていく。

 これは人付き合いに似ている。
 同じ友達と何度も会うのは、新しい情報を得るためではない。
 変わらない部分と、変わっていく部分、その両方を確かめるためだ。


 落語も同じだ。

 「またこの噺か」と思いながら席に座り、
 「やっぱりこの噺だな」と思って帰る。

 結末を知っているから、安心して身を委ねられる。
 それでいて、今日は何か違うかもしれない、という期待もある。

 同じ噺を何度も聴くのは、保守的だからではない。
 何度聴いても成立してしまうほど、余白と奥行きがあるからだ。


 要するに、落語ファンというのは、
 同じ話を肴に、毎回ちょっと違う酒を飲んでいる人たちなのだろう。

 落語を人の営みとして捉え直す視点が腑に落ちました。結末を知っている安心感と、今日だけの違いへの期待。その両立こそが寄席に通う理由なんですね。今年も残りわずか。さあ「芝浜」を聴きに行くぞ!

 こしらGPT師匠、次回も宜しくお願いいたします!!!

 (不定期連載)

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