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〈書評〉 はい、出前落語です 北の噺家=落語活動家の誕生 (東家夢助 著)

「芸人本書く派列伝 クラシック」 第17回

揺れ動く噺家人生

 初高座は1959(昭和34)年4月21日、正式な入門を許されて間もない時期に川崎演芸場で務めた。駅前のビル4階にあり、階下のパチンコ屋の騒音が聞こえてくるような寄席だったという。1963(昭和38)年に二ツ目昇進、柳家小三太(やなぎやこさんた)となる。

 それまでの4年間には、酒の味を覚えるなどの寄り道もあったようだ。さらに、1960(昭和35)年には高校時代の友人と安保闘争にも参加している。寄席勤めをサボって横田基地を包囲した10万人のデモ隊のひとりになった。このあたりに後の人生が見えている気がする。

 落語家・柳家小三太の契機は、労音寄席を知ったことだった。電車内のポスターを見て、東京労音事務局に乗り込み、出演を勝ち取った。いざ会場の向ヶ丘遊園(現在は閉園)に行ってみると、高座が設置されているのは屋外の屋台、しかも客席との間が道路という最悪な環境だった。しかし詰めかけた労音会員はきちんと座って聞いてくれた。このことに感激し、小三太は労音に好感を抱くようになる。

 労音とは「全国勤労者音楽協議会」の略称で、勤労者が会費を自弁して音楽や芸能に親しんでいく職場の文化活動としてさまざまな催しを開いている。趣旨に賛同した小三太は、自ら代表者となって文化サークルまで結成した。

 その縁から一員となったのが1961(昭和36)年に設立された〈民俗芸能を守る会〉である。落語の世界からの主要な参加者の一人が、八代目林家正蔵(のちの林家彦六)だった。芸の上では伯父にあたるこの落語家にも可愛がられた。

 やがて決定的な瞬間が訪れる。二代目神田山陽の一門にいた大谷竹山(おおたにちくざん)の一座に加わって函館を訪れたのである。竹山は、もともと社会運動家だった人が講談師になったという人物だ。函館労音の人々と出会い、その誠実な人柄に触れた結果、小三太は自身の生き方に迷いを覚えるようになる。

 帰京後も、本業よりも邦楽や民族芸能などに気持ちが揺り動かされる日々が続き、落語家としては伸び悩む。さらに前座時代に覚えた酒に溺れるようになり、ついには1966(昭和41)年6月10日に睡眠薬を飲んでの自殺未遂事件を引き起こす。

 もう落語界にはいられないと覚悟を決めたところに来たのが、函館労音からの招きだった。こうして小三太こと田中誠は、25歳にして函館移住を決意、函館労音の事務局員として働き始めるのである。