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2026年5月の最前線 【前編】 (聴講記:大阪・連続講談千鳥亭 / 講談『太閤記』小考②)

「講談最前線」 第18回

講談『太閤記』小考②

 これまで時代小説や大河ドラマなどで、幾度となく扱われてきた『太閤記』であるが、豊臣秀吉という人物が実在したことは間違いないとは言え(何を今更ではあるが……)、秀吉にまつわるエピソードとなると少なからず差異が見られたり、事実と異なる点、いわゆるフィクションも多々見られる。

 講談で言うと、先月の講談『太閤記』小考①で記した通り、『太閤記』は“秀吉の生誕に始まり、亡くなるまでの生涯”だが、実際の秀吉とフィクションの部分を見比べる時、そもそも講談の『太閤記』について、その原本(元書という方が適切か)をどこに求めるべきなのか。実はその詳細はわからない。

 講釈本としては、1789年(天明7年)に白栄堂長衛(はくえいどうちょうえ)という講釈師が編んだ『太閤真顕記』(たいこうしんけんき)が最初とされるが、おそらくその前段として、秀吉の甥である豊臣秀次に仕えた医師・小瀬甫庵(おぜほあん)が1625年(寛永2年)に著した、いわば“秀吉神話”なるものを作り上げたとされる『太閤記』があるのは間違いないだろう。

 また『太閤真顕記』は、秀吉の命を受けた御伽衆(おとぎしゅう)の一人であった大村由己(おおむらゆうこ)が天正年間の秀吉の事績を記録した『天正記』に遡ることができる。この著は、秀吉生存時に記されたとされ、それだけに秀吉自らによる神話創作が盛り込まれていると考えられている。先に挙げた秀吉の生誕を1536年(天文5年)の元日としたのは、その代表である。

 そして秀吉の死後、その一代記としてまとめられたのが、織田信長や秀吉、秀頼に仕えた太田牛一(おおたぎゅういち)による『大かうさまくんきのうち』であり、他にも秀吉に仕えた田中吉政の臣下である川角三郎右衛門(かわずみさぶろうえもん)の『川内太閤記』などからも影響を受けていると言えよう。

 一方で、今現在、講談の有力な種本とされる、江戸期に幕府の御家人である栗原柳庵(くりはらりゅうあん)が著した『真書太閤記』については、一般的に知られる『絵本太閤記』等をも取り込み、他の記録に残る史実や逸話を取り入れながら話が形作られていった。そうした行程を経て、壮大な物語になっていったというのは、講談や落語といった話芸の形成においてしばしば見られることだけに、現在の『太閤記』の過程を探る時に、そうした想像もまた難くない。

 さらにその後の各時代において、特に明治以降になるが、太平洋戦争終結までの軍国主義時代において、秀吉という“天下一統を行った人物”を時局がどうとらえていき、その人物像なりをどのように利用していったかということも、制作過程を追っていく時に視野に入れなければならない。

 前回から指し示す話芸としての『太閤記』に、演者による設定の差異が見られるというのも、そうした長い制作過程に加えて、演じ手による作品演出の工夫といった要因があることも加えていかなければならなず……、と惜しい切れ場であるが、この続きはまた次回に。(この項、続く)

(以上、敬称略)

(後編に続く)