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〈書評〉 聞きがたり北の大衆芸 (川嶋康男 著)

「芸人本書く派列伝 クラシック」 第18回

村々の座敷が浪曲の舞台

 続篇にあたる『聞きがたり北の大衆芸』では、第6章「浪曲の大衆性と風化」がまるまる浪曲という芸に当てられている。

 紹介の中心になっているのが、山岡正男という元浪曲師から著者に届いた手紙である。山岡は『北の昭和放浪芸』を読んで川嶋のことを知ったようであり、自身の知る北海道内の浪曲事情を便箋にびっしりと書いて送ってきたという。

 川嶋が手紙を受け取った時点で65歳だったというから、1911(明治44)年ぐらいの生まれか。現役最高齢曲師の玉川祐子と一つ違いである。

 福島県出身の彼は、当時爆発的な人気のあった浪曲が好きになり、19歳の時に来京して浅草でいくつか大家の門を叩くが、相手にされなかった。福島訛りがあったからだという。断られた浪曲師の一人が初代春日井梅鶯(かすがいばいおう)だった。玉川祐子が広沢虎造(ひろさわとらぞう)に頼んで断られ、天才少女浪曲師・鈴木照子に拾われたのと同じである。

 山岡の場合は、浪曲師で引き受け手がおらず、しばらく弁士として活動していたが、トーキーの波が来て失業、紙芝居や漫談など、1938(昭和13)年頃までは芸能界に首を突っ込んでいた。その後1948(昭和23)年に北海道栗沢町(現・岩見沢市)に引き揚げ、開拓農家に入る。

 時間が飛んでいるのは、言うまでもなく戦争の影響だ。食糧難・混乱の東京を見限り、新天地を求めたのだろう。北海道で就農しつつ、農閑期に「座敷回り」の芸人をするようになる。そうした生活が1950(昭和25)年から1956(昭和31)年頃まで続いた。

 座敷回り芸人は、通称「シキザ」といい、浪曲芸人の間では最低の部類に入ると蔑視されていたようである。だが、山岡によればそうした芸人が13人はいて、全道を駆け巡っていた。同じ村で2人がかち合うこともあったそうだ。

 「門付」は文字通り、家々の門戸を訪ねて歩くわけで、時に飛び込みになるが、座敷回りの場合は浪曲を好きな家に、次の村で引き受けてくれそうなところをあらかじめ紹介してもらっていたようだ。浪曲好きでも小さな家では駄目で、芸人の1人や2人が泊まっても支障ないほどの経済的なゆとりがないと話にならない。そのために村の顔役を通じて世話をしてもらう必要もあり、必然的に回るコースができていたようだ。

 浪曲をやる家は、村内を回って声をかけ、人を集めてくれる。そうやって世話になるので、当然だが、家の人からは金を貰うわけにはいかず、逆に会場費として謝礼金程度を支払うこともある。宿泊と食事を提供してもらうだけでもありがたいわけで、客入りによっては収入がないこともある。

 また、客が入ったからといって木戸銭かける頭数が貰えると決まっているわけではない。村にはそういう概念がないのだ。聞いてみて良かったら、ご祝儀という形でなにがしかが貰えるのである。