〈書評〉 〈声〉の国民国家 浪花節が創る日本近代 (兵藤裕己 著)
「芸人本書く派列伝 クラシック」 第10回
- 浪曲
- Books
杉江 松恋
2026/03/01
雲右衛門の声が編んだ、幻想の共同体
それに関して、二つの印象的な指摘がある。
第一は、まず夏目漱石に関することだ。漱石が文学者として頭角を現したのは『吾輩は猫である』を連載していた1905~06年以降のことであり、これは雲右衛門の出現とほぼ重なる。おもしろいことに、この二人は没年までも1916(大正5)年で同じなのである。
漱石は落語について書くことはあっても、浪花節とはほぼ没交渉だった。おそらく嫌いだったのではないかと思われる。
リテラル、つまり文字文化の代表者が漱石だとすれば、雲右衛門は非文字文化、すなわちオーラルの代表者だった。歴史が示すように、明治から昭和にかけての大衆文化はオーラルなものが多数派を占め、浪花節はレコードやラジオを通じて全国に流通していった。漱石と雲右衛門の没後しばらくして、大政翼賛体制が完成すると、文学者たちは戦意昂揚の浪曲台本をも書くようになる。リテラルなものの敗北を示すような事実だ。
第二は、「大衆が何を支持したか」という問題だ。浪曲隆盛の時代は、そのまま社会主義が日本に持ち込まれ、大衆からの支持を得られずに非合法化していくそれと重なっている。旧時代の秩序が崩壊し、家族観・道徳観の浮遊を味わっていた大衆は、「日本国民」という均質で亀裂のない心性の共同体へと引き寄せられていく。その幻想の共同体を現出させるのに、浪花節も一役を買ったことは間違いない。
雲右衛門の時代には「武士道鼓吹」ものであった浪曲が、大正期に入ると日本人の義理人情を謳う「庶民芸術」「大衆芸術」と見なされるようになったという指摘は重要である。
浪曲に描かれていたのは、あくまで非常民の心性であったはずなのに、そうした土台は無視され、その上に「日本人」という幻想の大衆像が築かれたのだ。社会主義者たちが唱える階級闘争は、“日本人は一体”という幻想を揺るがすことができず、敗北したのである。
戦後になって浪曲が衰退したのは、軍事浪曲などを演じたことが嫌われたためだという俗説がある。
1920~30年代に最もヒットした浪曲がそうした時局ものではなく、寿々木米若(すずきよねわか)「佐渡情話」や、三門博(みかどひろし)「唄入り観音経」であるという事実によって明確に否定されるべきなのだが、それ以前の深層に兵藤は切り込んでいる。
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