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修行か、修業か

「噺家渡世の余生な噺」 第15回

二つの景色

 辞書を引けば、答えは簡単である。

 「修行」は、人格を磨くこと。
 「修業」は、技術を磨くこと。

 なるほど、その通りなのだろう。ところが落語の世界へ入ると、その一字が急に重たくなる。前座を経ずに高座へ上がる人を見て「落語家ではない」と言う人がいる。一方で「面白ければ、それでいい」と言う人もいる。

 私は、この二つの意見は対立しているようで、実は見ている景色が違うだけなのだと思っている。前者は「修行」を見ている。後者は「修業」を見ている。

 日本という国は、少し変わった国である。技術だけではなく、その人が歩いてきた道のりまで評価したがる。寿司屋でもそうだ。「数か月の養成学校で十分」という人もいれば、「十年の板場があるから旨い」と言う人もいる。本当は、どちらも間違いではない。旨い寿司を食べたいだけの人もいる。職人の人生まで味わいたい人もいる。

 落語も、それによく似ている。前座を、落語家としての了見や人間性を養う期間と考える人にとっては「修行」。一方で、芸を身につける期間と考える人にとっては「修業」。私は、この二つは対立するものではなく、落語家人生の中で役割が違うだけなのだと思っている。

数では測れぬもの

 客を呼べるか――。

 今回の騒動は、結局そこへ話が集まっていった。芸人という商売は、不思議なものである。どんなに芸があっても、まず高座へ足を運んでもらえなければ始まらない。

 だから落語家は、芸を磨くだけでは足りない。芸人になる努力もしなければならない。独演会を企画し、チラシを作り、頭を下げ、時にはSNSも覚える。ようやく一人のお客様が来てくださる。しかし、その高座で芸を感じていただけなければ、その方は二度と来ない。逆に、芸を感じていただければ、今度は「芸人」を見に来るのではなく、「芸」を聴きに来てくださる。この違いは大きい。

 だが私は、どちらが上とも下とも思わない。一年に一度、祭りのように大勢を集める会も見事である。一年を通して、少人数でも「この人の噺が聴きたい」と通ってくださる方がいることも、同じくらい尊い。

 ただ、人は数字に弱い。千人の満員を見ると、百人の常連を忘れてしまう。それだけの話なのである。