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〈書評〉 修羅の時 青春の時 (山田太郎 著)

「芸人本書く派列伝 クラシック」 第15回

運命の出会い

 1949(昭和24)年、幸男にとっての転機が訪れた。中京地区の大看板・酒井雲(さかいくも)門下の酒井雲坊から手紙が舞い込んだのだ。

「東京へ上がりたい。しかし、わたしには相談する相手がいない。そこで、あなたに聞く。イエスかノーか。はっきりした返事がほしい」

 酒井雲は「恩讐の彼方に」などの文芸浪曲で知られた人で、後援会には後の自由民主党初代総裁の大野伴睦(おおのばんぼく)、辻寛一(つじかんいち)などの政治家が名を連ねていた。辻寛一は作家・辻真先(つじまさき)の父である。インテリ浪曲師として異色の存在であり、同業者から敬遠されがちでもあった。

 そんな酒井雲の実力を唯一正当に認めたのが木村友衛で、東京の大会にも招くなど親交があった。だからこそ雲坊は東京進出の足掛かりとして、友衛の弟子である幸男を頼ったのだった。

 雲坊の問い合わせに対して幸男が出した返事は、以下の通り。

「結婚をしているのかどうか、それを知りたい。独り身なら問題ないが、家庭があるなら奥さんと子供を置いて、単身上京できるのかどうか。その覚悟があるなら、こちらの返事はイエスである。女房子供を呼び寄せる日は必ずくるだろう。しかし、三年間は我慢してほしい」

 こうして二人は手を組むことになり、1959(昭和34)年12月27日、当時の自宅があった九州から酒井雲坊は単身上京してくる。酒井雲坊、後の村田英雄(むらたひでお)である。

 というように昭和浪曲界のいいエピソードが綴られていく。浪曲大会で恥をかかされて当時の興行界のドン・永田禎雄をぶん殴ってしまい、浅草の山春こと山田春雄に手打ちの相談をする話だとか、後に酒井雲坊こと村田英雄が歌手に転じた際、最初に世話になっていた古賀政男(こがまさお)を切って新進作曲家の船村徹(ふなむらとおる)に乗り換えようとして激怒された一件だとか、語られる内容はどれも興味深い。