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修行か、修業か

「噺家渡世の余生な噺」 第15回

修行か、修業か

受け継ぐのは、芸だけではない

柳家 小志ん

執筆者

柳家 小志ん

執筆者プロフィール

問いの始まり

 この月例エッセイには、締切日がある。

 私の場合は、毎月4日。そこから10日ほど編集期間を経て、14日に世へ出る。14日に公開する理由には、またささやかな意味を込めている。今月の題は、最初から決めていた。「修行か、修業か」。たった一文字違うだけの話である。

 ところが締切日の午後になって、落語界が少し騒がしくなった。ある著名人が、本職の落語家から高座名を授かり、「落語家デビュー」と銘打って大劇場へ上がるという。瞬く間にチケットは完売し、SNSには賛否両論があふれた。

 「落語家とは何か」
 「前座もしていないのに落語家なのか」
 「客を呼べるなら、それも実力ではないか」

 もっともらしい意見が飛び交う。すると当の本人も応じた。

 「本職の落語家が客を呼べないのは、努力不足だ」

 私は、その騒ぎを眺めながら、ふと一冊の本作りのことを思い出した。

一字に宿る想い

 以前、我が一門で『柳家さん喬一門本』という本を出版する機会をいただいた。

 師匠を含め、一門それぞれの入門秘話を綴った本である。私は企画から番頭役まで務めさせていただいた。皆から原稿を集め、一通り目を通し、編集者へ渡した。しばらくして編集者から一本の電話が入った。

 「確認したいことがあります」

 何か大きな誤字でもあったかと思えば、そうではない。

 「『しゅぎょう』の字が統一されていません」

 見返してみると、確かにそうだった。ある者は「修行」。ある者は「修業」。私は何の疑いもなく「修行」だと思い込み、「修業」という文字を見落としていたのである。

 師匠・柳家さん喬に相談すると、「修行で統一しよう」。そう静かに仰った。そのひと言に私は妙に安堵したことを覚えている。たった一文字。しかし、その一字の違いに人の落語観まで映っているような気がした。