入門
「すずめのさえずり」 第二回
- 落語
古今亭 志ん雀
2025/09/01
だめだ。押せない
さて、落語家になるには入門をしなければならない。
師匠の住所は故あって知っていたので、地図を見ながら辿り着いたのであるが、いざ門を叩こうとしたら体が動かなくなった。
門が、ない。
という意味では、無論ない。
今どき大体の師匠の家に門はない。
そういうことではなく、このインターホンを押して入門が叶ったら、これまでとはまったく違う「修行」の日々が始まるのだ。そう思うと、足がすくんだのである。
当時は他の一門のことは知らなかったが、志ん朝一門の座談本を読んで、ここはどうも厳しいらしい、ということは予想していた。
まあ今にして思えば修行が厳しいかどうかは別に……という話は本題から外れるのでここでは触れないが、とにかくまるで違う世界に飛び込む恐怖。経験したことのない緊張。
思えばそれまでなんとなく生きてきた。緊張らしい緊張をしたことがなかった。
私は中学受験をしているのだが、入試当日は大変な大雪で交通は大混乱。朝からの予定が午後からになったが、半分記念受験だったのでそれでコンディションが崩れることもなく、ただただ大雪という非日常にワクワクしていた。
エコーの研修生になるときも、まあ行けたらおもしろいよな、程度の感覚だった。芝居に生涯を賭けるという覚悟など、今思えばなかったし、あったらあったで、それこそ緊張してまるで動けず声も出せなかっただろう。そんなわけなので、入所審査の際もノリノリでパフォーマンスしていた。周りの人たちはどうしてこんなに緊張しているんだろう、などと思っていた。
のほほんと生きてきた自分が師匠宅の前に立ったとき、大げさに言えば初めて「人生」を意識したのだ。
このインターホンを押したら師匠か誰かが出てくるのだろう。
そうしたらまずなんて言えばいいんだ? いきなり弟子にしてください!、でいいのか?
いや、弟子にしていただけませんでしょうか、のほうが丁寧でいいのだろうか。だがそれでは慇懃すぎて熱意が伝わらないのではないか?
ていうか師匠は俺のこと覚えてるか? 改めて自己紹介からするべきか?
だめだ。押せない。思い切りが足りない。
師匠宅は線路沿いにあった。
そうだ、次の電車が通ったらインターホンを押そう。
ところがその時は朝の通勤時間帯だった。次の電車が……と考えているうちにもう次の電車が来た。まだ心の準備が。三十分に一本、くらいの頻度なら良かったんだが。
よし、じゃあ電車が三本通ったら押そう。
そうしたら上りと下りが同時に来た。あれ? 三本ってのは上下合わせて三本か? それともどちらか一方向だけで数えるのか? 決めていなかった。
そんなことを考えながら玄関前をウロウロしているうちに二時間がたっていた。
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