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とめどない嘘のつくろい

「艶やかな不安の光沢」 第3回

 小説においても、そうであると思う。

 まずそう言える権利が私にあるのだろうか、という問いをかけるまえに、一読書者、一享受者としてこの際大きく出て、『罪と罰』というまさしく暗晦(あんかい)の辻々を持ち出してみたときには、私はそれこそ壮大な辻褄合わせではないか、という感慨を得る。それはかの三兄弟の長篇噺においてもそうだが、ところどころに整合性の蜘蛛の巣が巡らされてあるような、無理に、また自然に紐づけしていくような饒舌の織りなしは、庶民笑話の上布ほど風通しは良くないが、どちらかと言えば言い訳めいた描写の怒濤で巨細(こさい)を縫い合わせていく作業によって、まさしく合うはずもない辻褄を合わせながら、厳密な構想があるというよりは辻と辻とが交錯しながら合わせられていくというようなことを、私は感じるのである(これも若手の芸人らしい言い逃れをすれば、ごく勝手に、そう思うだけである、と書いておく)。

 主人公ラスコーリニコフの友人であるラズミーヒンは、おそらくはさしずめ重要な人物でもないが、たしかに主要な人物であり、変わり者と言えば変わり者だが、どちらかと言えば善良な人物、といったところだと思われるが、彼が酒に酔い言い放った台詞に私は過去に付箋をつけていたようなので試みにその個所をここに引用してみる――「あなたは、ぼくがこんなことを言うのは、やつらが嘘をつくからだと、そう思ったんですね? 阿保らしい! ぼくは嘘をつかれるのが、好きですよ! 嘘をつくということはすべての生物に対する唯一の人間の特権です。嘘は――真実につながります! 嘘をつくからこそ、ぼくは人間なのです。十四回か、あるいは百十四回くらいの嘘をへないで、到達された真理はひとつもありません。しかもそれは一種の名誉なのです。ところで、ぼくはその嘘すら、自分の知恵でつけない! 自分の知恵でぼくに嘘をつくやつがあったら、ぼくはそいつに接吻します。自分の知恵で嘘をつく――このほうが他人の知恵オンリーの真実よりも、ぜんぜんましですよ。前者の場合そいつは人間ですが、後者の場合ただの鳥にすぎません! 真理は逃げませんが、生命は打ち殺すことができます。そんな例はいくつもあります。さて、いまのわれわれはすべて、一人の例外もなく、科学、発達、思索、発明、理念、欲望、リベラリズム、分別、経験その他すべての、すべての、すべての、すべての、すべての分野において、まだ予備校の一年生です! 他人の知恵でがまんするのが安直で、すっかりそれに慣れきってしまった! ちがいますか? ぼくの言うのがまちがってますか?」――ドストエフスキー『罪と罰』(工藤精一郎訳)