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とめどない嘘のつくろい

「艶やかな不安の光沢」 第3回

 Razumikhin(英)。その名には分別、道理と云う意味があるらしく、あるいはそういう意味では狂言廻し的なこの人物のこの台詞がそのあとにどう繋がって、実際にどう作用するのかまで私はいま言い当てられないが、それでもこれがやがて尋問がはじまり贖罪(しょくざい)の原野へ放り出されるための物語の重要な証言でもなければ、その全体のすじに関わることでもないということは確言できるような気がする。と同時に、わずかながらにも刻まれている読後の風を思い出してみるときには、やはりこの台詞が虚構世界の全体の布地を構成する一本の糸となって貫くような手ざわりを感じ、やはりそこにはくだんの辻褄合わせの作用があるようにも私は思うのである。

 〈辻褄合わせ〉の語源が和装にあることは読んで字の通りで、辻とは裁縫用語で縫い目の合わさる要所であるとのことらしいが、その目印が、左右の褄と合わなければ仕立て屋は欠陥品を出すことになるし、着付けにおいても、褄のまえうしろは、足元を振り払い振り払いして裏地をちらつかせながらひらひらと舞い踊るが、足を揃えればやはりぴたりと合うのが好ましいだろう。それはそもそも着物を糺す(ただす)心得であり、そう思うほどに概ね仕事的であり、ワザである、という気がするが、語義を吟味するのも言い訳の延長、いま一番近くにある書物である愛用の『デイリーコンサイス独和・和独辞典』にて「辻褄が合う」の事項を引いてみると、frisierenという動詞だったり(Friseur=理容師。よって髪を梳かすの意)、zusammen|reimenという動詞が出てきたりして(共に/韻を踏む)、それはやはり生きていくための身支度であり、身ぎれいであり、また言葉尻を合わせるような文飾、なりゆきに落ちをつけて、いかにも全体をさっぱりと整えるという落語家的美学にも帰着するようでほくそ笑んでしまったが、あらゆる創作物における噺の辻褄は、それは拘りといえば拘り、訂正といえば訂正、構築といえば構築だが、やはりとめどない、嘘のようでならない。麻の布帛(ふはく)がくぐられたのは、くらやみの世の中を、少しでもおもしろおかしくするための目印の調整であり、罪も罰も、字面ほど大げさなことでもなく、むしろその大陸の広さを、言葉は、いかにも身近な実人生のつくろいのなかに留め、読書というこれまた身勝手な繕いは、身勝手がゆえに読書なのであると思わされる。あるいは執筆、それ自体。この目印をつけたふたつの辻がぴたりと合うことはないかもしれないが、そうして辻褄を合わせていくことで、どうやら成り立つものもあるらしい。

 しかし、そうして辻褄を合わせてみたあとでも――私は、またさもしい思いがする。あの母の願いを、思い出すのである。果たして、それで済ませていいものだろうか。もっと、つめたいような願いを、忘れてはいやしないか。雷をおそれるような、願いを。長い年月を経て、そもそもの形もなく、修繕のあとも忘れ去られて、とうとう記憶の手中にすっぽりとおさまってしまう、つめたさを。