見えないものを見る

「二藍の文箱」 第16回

見えないものを見る

何もない高座に、いつしか江戸の情景が立ち上がる(画:ひびのさなこ)

三遊亭 司

執筆者

三遊亭 司

執筆者プロフィール

15年目の落語会

 見えないものを見る。

 これは落語家に限らず、どんな商売にも言えることで、目の前にあるもの、目に見えるものだけが「ある」わけではないということ。

 そんなはなしをすると、聡明な――と、信じてやまないが、ホントに聡明ならばこんなもの読みゃしないだろうが――そんな読者諸氏ならば、サン=テグジュペリの代表作、『星の王子さま』で著者がキツネのセリフを借りて言った、有名な一節を思い出したかもしれない。

 ほんとうに大切なものは、目に見えない。

 目に見えたとしても、それを大切と思うかどうかは、わたしたちの心であり、やはり視覚云々のはなしではない。

 わたしが毎月やっている落語会に、日本橋の老舗蕎麦屋、薮伊豆総本店での『日本橋つかさの会』がある。

 やっていると言っても、会主がいて、薮伊豆総本店があってのわたしだ。どんな落語会であれ、ひとりでできる落語会などない。そして、そこに、お客さんがいる。

 この日本橋の会も平成23年(2011年)の9月から毎月開催されているので、今年の9月で15年、のべ177回目となる。こうして会を重ねると、毎月口演するわたしより、お客さんをはじめとする、たずさわってくださった方が「よほどエラい」とつくづく思う。

 毎月の会も、それだけ会を重ねると大変なのがネタ選びで、なるべく2年は被らないように……といっても季節や企画でどうしても今月はこの噺を、という時ももちろんでてくる。落語という藝能の性質上、同じ噺にめぐり合うのは、ある意味承知の上だろうが、それでも、やはり、こちらもダレる。

 なので、同じ噺をやるにつけても、噺へのアプローチを変えてみる。この場合のアプローチは、噺の細部という意味でなく、落語会のパッケージという意味合いのほうが強いかもしれない。

 そのひとつが、昨年の昭和100年にちなんだ企画『昭和名人十二撰』というもの。例えば、大師匠のそのまた師匠、二代目円歌なら『三味線栗毛』。三代目圓歌なら、まさか自伝的な『中沢家』はできないので『西行』といったように、毎月おひとり、十二ヵ月十二人の先人たち、師匠方の噺とその師匠にまつわるエピソードをおはなしした。