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やれ打つな 俺が手をすり 家事もする

「朝橘目線」 第17回

 数年前に私の義母、妻の母親の十七回忌の法要をした。

 私は義母に、会ったことがない。妻に出会うよりずいぶん前に亡くなっている。写真立ての中で、喧しい我が家をいつもニコニコ、聖母のように見守ってくれている。実際この場にいたら、どんな顔になるだろう。一番怖かったりして。さておき、法事の中で、ご住職がおっしゃっていた。

 「人は二回、死というものを体験します。一度目は肉体の死。二度目は死後、時間が経って人から忘れられること。だから故人を忘れずにいてあげてください」

 なるほど、さすがお寺のお坊さんはよく物を知っている。我が子の名前を相談に行きたくもなる。「好きの反対は無関心」みたいな話だ。

 この夏、妻と子どもたちは三人でプールに行ったり、博物館に行ったり。お友だちと花火をしたり、映画を観に行ったりしていた。あれ、お父さんは?

 「あ、行きたかったの?」

 すっとぼけた顔で妻に言われた。私はもう、第二の死を済ませている。せめて肉体だけは死守しよう。

 大師匠方の墓参をアピールしたいわけではない。我が五代目円楽一門会も、若手たちは、もう五代目の大師匠に会ったことがない。世間様も少しずつ忘れていくだろう。そのまた師匠の圓生師や、三代目小圓朝師となればなおさらだろう。

 後進の者は、芸の継承は当然として、他にも色々使って落語家としてのご先祖様が忘れられないように努めるべきじゃないか。そんな思いでSNSに上げた。間違ってはいないと思う。ただ、バランスを欠いた。

 重度の人見知りにして無愛想な私は、生身の人間と写真を撮れない。「よくみんな、気軽に先輩たちとのツーショットを頼めるなあ」と舌を巻いている。いや、チキンな私が巻いているのは、尻尾なのかもしれない。

 引っ込み思案ってのは、現代社会では損でしかない。ある同業者が、「大物と一緒に撮った写真をSNSにアップすれば、その瞬間、自分もその人と同格になれる」と言っていたらしい。とても好きな台詞だ。そういう生き方を羨みつつも、性分に合わないので諦めている。

 ご一緒フォトの不足は、そんな自分のせいだと思っていた。