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2026年8月の最前線 【後編】 (聴講記:津の守講談会、田辺凌鶴の会 / 講談『太閤記』小考⑤)

「講談最前線」 第26回

話芸に求められる演者の姿勢

 今、私が席亭を務めている向じま墨亭で、若手落語家の桃月庵白浪が毎月、ネタ下ろしを軸にした会を開いている。今年に入ってからは、三遊亭圓朝作の「塩原多助一代記」を連続で演じている。詳細まで記すとネタバレになってしまうので、ここでは避けるが、大胆に、ただし本筋は変えることなく、物語にメスを入れている。

 話芸にとって、それは必要な姿勢で“も”ある。例えば、当時の風俗であったり、現代人とあまりにも乖離しすぎる習慣や考え、さらに複雑な人物関係や場面転換、またわかりにくい用語等があり、それが物語の展開上で聴き手に無理を感じさせてしまうのであれば、「自分なりに解釈し直して演じている」といった演者が積極的にメスを入れる必要“も”あろう。

 今ここで、二度「も」と記したのは、一方でやはり伝統芸であれば、先人からの教えであったり、芸というものを守る必要もあるからであり、ここではそのどちらが良いとかそういう話ではなく、演者が物語とどう向き合い、それをどんな形で聴き手に提示していきたいのか、その表れを自分の芸の一つの形として表していくべきだからである。これは先の聴講記で、神田伊織の高座姿で記したことでもある。

 仮にここに演者が10人いて、10人が話を変えていくべきだという考えのベクトルを持っているのであれば、乱暴ではあるが、物語は形を変えていかざるを得ないのではないかということだ。

 そもそも口承芸である落語は、語り継がれていく間に演出であったり、展開は変わってきたはずだ。例として適切でないかもしれないが、安楽庵策伝が江戸初期に残した『醒睡笑』、それを話芸である落語のテキストと見なしていいのかという思いもないではないが、江戸期に残された噺本などに目を通しても、半数近くは今となっては「?」と思う展開を含む作品が見られる。落語は時代を経て、変化を見せているのだ。