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2026年8月の最前線 【後編】 (聴講記:津の守講談会、田辺凌鶴の会 / 講談『太閤記』小考⑤)

「講談最前線」 第26回

『太閤記』におけるオリジナリティ

 話はズレたが、伝承芸と言っても演者によるオリジナリティは必要であるし、それが講談であれば、一人の人物伝を作り上げた時に、新しい視点であったり、その時代を生きる人による視点――実はそれは物語として本質がブレることも多々ある危険な行為ではあるのだが――により、新しい物語が生まれるのは当然と言える。

 先に『太閤記』は、近代社会という時代の必要性において、その時代時代の価値観が影響を与えていっただろうということを記した。歴史は勝者が作ると言われることがあるように、後代の徳川政権下で、秀吉の功績は否定され、それはまた明治期に覆されたと見ることもできる。

 さらに、講談で言えば、江戸(東京)講談と上方講談の差異もあり、それぞれの演者が『太閤記』をどう解釈する(解釈をしないで先人の取り次ぎをするというのもありで、それは上にも記したように、また必要な姿勢でもある)かということでもある。

 連続物であれば、連続で読んでいく「通し」としての面白さもあろうし、面白い部分だけを独立させて、一席物として読むこともできる。

 これまた乱暴な分析になるが、先にも記した「矢矧橋」という場で、若き日の太閤秀吉が橋の上で誰と出会うのか。史実としては「矢矧橋」の場はないわけであるが、蜂須賀小六と出会えば、後に秀吉は自分に出世の機会を与えてくれた小六を重宝することになり、また、どんでん返し的な出世譚としての面白さとしても表さる。

 一方でそれが竹千代時代の徳川家康であれば、一席物として「え?」と思わせる展開の面白さもあり、連続物で聴いていったときに整合性はあるのかという疑問がまた話に興味深さを抱かせることもある。

 それこそ、八津氏の言葉を借りれば、〈講談『太閤記』ならではのおもしろさをどう伝えられるか〉に、語り継がれていく『太閤記』の楽しさがあるのではないかと、『豊臣兄弟!』を見て、『太閤記』の面白さを改めて感じた次第である。(この項続く)

(文中、敬称略)

瀧口雅仁 X

(毎月13日頃、配信予定)