NEW

2026年7月の最前線 【後編】 (聴講記:講談協会定席 / 講談『太閤記』小考④)

「講談最前線」 第23回

講談『太閤記』小考④

 これまで見てきたように、『太閤記』は豊臣秀吉の人生を中心としたフィクションを多分に含んだ物語であることがわかったかと思う。

 今、手元に二編の『太閤記』の速記がある。一つは1925年(大正14年)に萬朝報(よろずちょうほう)の日曜付録で連載された、四代目宝井馬琴(1853年~1928年)の『豊太閤栄華物語』。もう一編はよく知られる、1928年(昭和3年)に大日本雄辯會講談社(だいにほんゆうべんかいこうだんしゃ)が刊行した「講談全集」第7巻に収載された、二代目旭堂南陵(1877年~1965年)の『太閤一代記』である。

 先に示した太閤秀吉の誕生の場に、両講談から迫ってみると、

 〈處で天文五年丙午の歳正月元日、尾州で呱々の声を上げた、その嬰児が後の豊太閤秀吉公、父は尾州清洲の城主織田備後守信秀の足軽で木下彌右衛門、母は同国五器曾村の百姓の娘、生れたその子に三之助と云ふ名前を命けた〉(宝井馬琴)

 とあり、一方で南陵版はというと、

 〈尾張國愛知郡中村の水呑百姓の子と生れ〉たとされ、その百姓の名を〈彌助〉と〈妻の千代〉、〈今日か明日かと待つてゐたが、其年は生れず、翌くれば天文五年丙申の歳、しかも元日の寅の一點といふから今の午前四時〉

 に生まれたとしてある。

 共通するのは、尾州中村で生まれたこと(馬琴版でも中村で生まれた様子を見て取れる)と、元日に生まれたことくらいで、父の名前も異なれば、干支も「丙午(ひのえうま)」に「丙申(ひのえさる)」と異なる。

 ちなみに、時代考証を行なうと、1536年(天文5年)は「丙申」であり、南陵演に正確さがあることから、ほかの事象も南陵版を取ればいい…ということには、もちろんならない(「丙午」は表記ミスの可能性もなくはないが)。