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2026年7月の最前線 【後編】 (聴講記:講談協会定席 / 講談『太閤記』小考④)

「講談最前線」 第23回

 秀吉の出自について諸説あるというのも、先に記した通りである。

 定説では、1537年(天文6年)2月6日とされ、父の名は弥右衛門とするものが多いが、馬琴が遺したように、織田家の足軽だったという説や百姓であったという説、また独特の史観で世を騒がせたことのある八切止夫(やぎりとめお)は、秀吉は山で伐採した柴を売って生活をしていた「端柴売り」であったから「羽柴」を名乗った等、どれが答えであるか、今、その真相はわからない。

 そして、これまた先にも示した、秀吉が出世の糸口をつかむ、いわゆる「矢矧橋」(やはぎばし)の場であるが、馬琴版には登場せず、秀吉は10歳の時に大工の修業をはじめるも、〈今の世は戦ばかりで、城を攻落せば大名にもなれる、職人なぞになつてゐる世の中では無い〉と、東国を目指す途中で路銀が寂しくなったからと声を掛けたのが、馬に乗った〈尾州海東郡の豪士蜂須賀家政〉で、家敏に金を恵んでもらい、岡崎へとやって来た時に、〈今川治部太輔義元の臣下松下嘉平次〉と出会い、その下についたとされる。

 それが南陵版になると、13歳の時に奉公先を飛び出し、やって来たのが矢矧橋。その橋上で出会ったのは〈尾張國海東郡蜂須賀村の郷士蜂須賀彦右衛門正利、其子小六正勝〉。だが、野武士である小六に早々に見切りを付け、秀吉(当時は日吉丸)は〈駿遠参の太守今川治部太輔義元の家臣、軍學指南役の松下嘉平次之綱〉の家来になったとされ、舞台背景や時系列が異なっている。

 このあたりについても、現在、定説とされている松下之綱の臣下になったという件は、最近の研究によって疑問視されているのは前回示した通りである。