N氏の碑から浪江の海まで
「艶やかな不安の光沢」 第4回
- 落語
林家 彦三
2026/09/04
*
諫早市(いさはやし)には何もないと聞かされていたが、私にはれっきとした目的があった。
福岡、佐賀、長崎に定期的に落語会に行かせてもらうようになってありがたいことのひとつに、いままで未踏であった文学的由緒地への訪問が叶うということがあった。私はその機会ごとに、原田種夫の碑や遠藤周作の記念館などを訪っていた。
その日、私は長崎空港から夜の便で帰ることになっていた。その前に、西坂の丘にて二十六聖人のレリーフを拝し、ひっそりと平和公園を訪い、手を合わせ、それから諫早市に向かった。
私の目的はただひとつ――伊藤静雄(いとうしずお)の詩碑であった。この詩人は自分の中では、めずらしい詩人である。日本近代詩史の中にあってもまるで毅然としていて、ヘルダーリン風といえば安易な表現になってしまうが、背筋の伸びた正攻法の浪漫性を感じさせるのであった、と、そんなことを噺家が言うと滑稽だが、お決まりの着崩れと足取りの作法でお許しいただきたい。今度は口髭も付けなくては合わなそうだが。
手にふるる野花は/それをつみ/花とみづからを/ささへつつ/歩みをはこべ――「そんなに凝視(みつ)めるな」の一節が刻まれたその詩碑は諫早公園のてっぺん付近にあって、なかなか骨が折れたが予定通りに訪い、眼鏡橋でぼうっとまちを眺め、おもむろに広げた観光パンフレット(こんなものをよく集めてしまう)を見ると近くに野呂邦暢(のろくにのぶ)の碑があることもそこで知ったが(この小説家は堀江敏幸先生の本で名前は知っていた)、それには線路を越え反対側の山を登らねばならないようで、疲労もあってあきらめ、私はその足でふらりと近くの市立図書館に向かった。
この図書館の展示が、けなげであった。伊藤・野呂両氏の案内書きも充実していたし、なにより関連の蔵書が殊勝で、伊藤関連だと、まずは臨川書店の壮観な復刻版の『コギト』全巻。昭和十六年山雅房から出た『コギト詩集』には、木山捷平がいて、挿絵は棟方志功。社会思想社の現代教養文庫七四九『苛烈な夢:伊藤静雄の詩の世界と生涯』という渋い古い文庫。編者は林富士馬/富士正晴(似ている)。野呂関連だと、古い集英社文庫の『鳥たちの河口』などもなかなか味があったが、何より同時代の初出作品の雑誌が揃っていて、ぱらぱらしただけでも当時の『ユリイカ』には例えば澁澤龍彦、川村二郎、菅野昭正、杉本秀太郎などの名前(メモ不足で失敬)。昭和五十四年の『カイエ』はキース・ジャレットの特集で、「ドライヴインにて」という野呂作品が掲載されており、その他には、中井英夫、飯吉光夫から川本三郎(川村二郎と似ている。そういえばはじめて読んだヘルダーリンは岩波文庫の川村訳だった)。またゾロトゥルマン、ジャック・レダからソレルス(たいがい堀江先生のご著作で知った)、村上春樹のインタビューとフィッツジェラルドの「哀しみの孔雀」の翻訳。宇佐美圭司が瀧口修造を追悼し、岡井隆、寺山修司、樹木希林から倉本聰まで。広告には次回のポー特集、そこにはどうやらヴァルザーの翻訳、という具合――
私はこの図書館で季刊「諫早通信」(通巻八十五号)という地元の有志で制作しているらしい印刷物を入手したが、野呂文学への誘い、という特集のもと野呂の「日記について」という小文が掲載されており、「かすんでしまうほどのハカナイ出来ごとなんか記録する値打ちはないと、人は思うかもしれないが、私にしてみればそうもゆかない」という野呂の日記観から、「空白の日記は、その日がまるで存在しなかったようだ」――という同じ九州出身の先輩作家である梅崎春生の言葉が引用されており、孫引きの孫引きでこれではいくら衣裳を飾っても体裁もつかないが、まさしくそうして、括弧(かっこ)と鉤括弧(かぎかっこ)と、引用不確かな紙切ればかりのご覧の通り無精な私の一日の空白の中に、このひとつの碑は、いまも建っているのである。つまり私はそのとき、もうすでに、野呂氏の碑を訪わなかったことを後悔していたのであった。
そして空港に向かう道すがら、長崎の碧い海を見ながら私は、そこから何か書き起こそうと思ったのである。

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