N氏の碑から浪江の海まで
「艶やかな不安の光沢」 第4回
- 落語
林家 彦三
2026/09/04
*
相馬野馬追の謂われは、千年以上前、相馬家の遠祖である平将門(たいらのまさかど)が下総国小金原にて野馬を敵軍に見立てて行った軍事訓練まで遡る。その後、元亨三年(一三二三)に相馬重胤(そうましげたね)が奥州に移り住み、以降この地の行事となったということだが、定かではないところも多いらしい。ただ江戸時代には、牟田文之助(むたぶんのすけ)という佐賀の人が、嘉永七年(一八五四)、『諸国廻歴日録』の中で「見物人は遠近の国ぐにから、武士、町人、百姓などが雲や霞が湧いているように集まっていて、全国でも、このような祭りは、ほかに一か所もないということだ(訳)」と書き残しているようだから、すでにそれなりの名物だったようである。現在は五月下旬の三日間にて催され、宇多郷、北郷、中ノ郷、小高郷、標葉郷、つまり今でいうところの相馬市、南相馬市、飯舘村、浪江町、葛尾村、双葉町、大熊町がかかわり、お繰り出し、宵乗り競馬、お行列、野馬追式典、甲冑競馬、神旗争奪戦、野馬懸などから成る。ご神体は妙見菩薩である――そういう基礎知識を、私は南相馬市博物館発行のガイドブックで学習したが、なぜそれを入手できたかというと、すなわち当地を訪れたからであった。
日記をつけていないので定かではないが、六月の下旬頃であったと思う。つまりそれは、この一大祭事のわりとすぐあとのことであった。二十数年落ちのトヨタの古いセダンで実家から川内村まではよく行っていたが、山ひとつを越えると、もう大熊町である。それから富岡に出て、双葉の伝承館に寄り、浪江で海を眺め、南相馬に至るという旅程であった。
私はこの旅の途中で、小高の本屋「フルハウス」にて本を五冊ほど買った。G・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』、ミラン・クンデラ『小説の技法』、A・E・コッパード『郵便局と蛇』などである。あとは思い出せない。
まだ、それほど読んでいない。というのも、噺家の諸先輩推薦の二冊を読み終えたあと、先行して、私はすでに二冊の本をそれらと入れ替えていたのである。H・M・デンネボルクの『ヤンと野生の馬』と、野呂邦暢の『愛についてのデッサン』――どちらも荻窪の「古書ワルツ」で入手した本であった。
前者は、野生の馬に引っ張られて手を伸ばしたというわけでもない。何より訳者の高橋健二(たかはしけんじ)がまずは目に留まり、購入した後で、ああ、また馬に縁があったな、という順序であったが、ホルスト・レムケのカバー画のかわいらしさも、その購買意欲に影響していたと思われる。近頃読了したが、「人形芝居の詩人」といわれたらしいこの作家の名作童話は、かんたんな言葉の中に、子どもの頃は誰しもがまとっていた、大切なほの明るさと、爽やかな地平の広さとを感じさせた。「野生のウマだって、こんなに、なれるんだよ」「今日まで、ぶたれたことは、一度もない。むちなんてものは、知らないんだよ」――これは暴れ馬が大人しくなって、片足あげて挨拶までできるようになったという場面の一節である。さいごは、無知/鞭という洒落が成り立つように思うが、どうだろう。おそらく、訳者の意図はない。噺家に教育された私の、かんちがいである。
後者は、私がはじめて通読した野呂作品ということになった。古書店主人が古本に秘められた謎や恋に光をあてながら解き明かす連作他、数篇の短篇を収める。まずは読みやすさ。それからミルクセーキのような、青春味。そしてあの日、諫早の図書館の雑誌類から放たれていたところの、私が知らない〈あの時代〉の、経年の匂い。この同時代の綴じ紐(とじひも)のなつかしさは、ほつれ過ぎていない。七十年代から八十年代の初版本の書き込みほどの、鉛筆書きの愛おしさ。(馬の縁については油断していた。ただ、表題作に登場する天才詩人の愛車がフォード社のムスタング〈Mustangは北米で野生化した小型馬の意〉であったのは覚えている。原本は現在友人に貸してしまって正確に引用できないが。)
以後、私はどうやらこの未だ謎多きN氏の、捜索者のようであった。
そんな折、落語会をしてもらっている初台のギャラリー兼本屋で、会の終わりに物色していると、そこには野呂の本がほとんど揃っており、瞠目(どうもく)した。訊けば、友人で尊敬する音楽家のO氏が選書しており、身近な方が、かなり熟練の野呂読者であったのである。私はその場でこのたびの顛末と事情をその目利き人であるoono yuukiくんに説明して、話し込み、早速そこでも野呂邦暢のミステリ集を一冊買った。
そんなこともあり、あの日、野呂氏の碑を訪わなかった日の思いが、日に日に、強くなっていった。それから長崎の機会はない。よっていまだ私は、N氏の碑文を知らない。あの日は、五月七日のこの作家の命日も近かったこともあり、なおさらに後悔はつのった。梅雨に入り、梅雨があけた。雨けぶる諫早の地に、私の思いがゆらゆらと残っているような思いがしていた。
野呂死してノロシになるのは、これは洒落の効果である。

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