N氏の碑から浪江の海まで

「艶やかな不安の光沢」 第4回

  

 そうしているうちに、夏がきた。

 私にとってまたひとつ、大事な小説ができた。

 『緑のハインリヒ』である。

 私はとうとう、読み終えたのであった。

 いままで、あなたにとっての小説は訊かれると『白鯨』と『晩夏』と言ってきたが、どうやらそこにもう一冊、この小説が加わった。

 もっとも訳者の伊藤武雄(いとうたけお)は自分にとって特別な翻訳者であったから(随筆集も持っている)、それなりの期待はあった。しかしその期待は、期待以上に違う実感で、そういう表現や言葉自体が軽々しくなるような次第で、このある種の出世譚、ひとりの人間の一大成長記は、私自身を大いに飲み込んでいって、ともすれば信念や決意に近い部分にまで迫ってきていたのであった。

 とくに後半。「何か独自の道徳律を、見なれない花かなんぞのように、手に握っているようにも」思われる女性と恋に落ちる場面。「あなたのほうの事情はどう。ほかにおさしさわりはありませんの」「遺憾ながら何年も前から全くのひとりぼっちです」「そんなら、二人でこっそりと気楽におつきあいを始めましょうよ。そして先々のことはなりゆきに任せておけばよござんすわ/ふだんの日は黙って満足して仕事に精を出しましょうね。働きながら恋しい人のことを考えたり、日曜日にはきっといっしょに暮せるんだと考えたりすれば、どんなに仕事が楽しみでしょう」――というようなやりとり。それから「私の頸(くび)に腕をかけ、甘い、真情のこもった接吻(キス)」をする。芸術家を志す主人公は、酔ったように歩いていく。そして思う――「なぜ、お前は、理想だの名声だのを追い求めるさまざまな営みを断念して、こういう幸福な名もない世界へ落ちていこうとしないんだ。なぜ……毎日わずかのパンを確実に手に入れ、毎晩、先の長い青春に向かって花を開こうとしているこのやさしい……」

 と、ここまで引用して、私は躊躇う(とまどう)。この先は、どうも披瀝(ひれき)したくないと思う。

 引用とは、ときに重宝であって迂闊(うかつ)に手を伸ばしてしまうが、またそれはできれば敬遠したい、致し方ない方策だと思う。あるいは引用とは、それだけでも価値は成立するが、それでも一晩中寂しさを叫び続ける、陶器の破片のようにも思う。拾い過ぎるのも、ヨクナイ。

 ひとつの大長篇を読み終えると、その関係した日々が、ひとつなぎにまた関係を持ち始める。散らばっていったものを、もうもとには戻らないばらばらの時間を、追悼にも似た〈馳せ〉が、それを統べる。あるいは小説にはそういう力があるのだとすれば、信じてみたいとも思う。

 今回も振り返るたびに、一陣の、緑色の風が私の内側に駆け巡ってゆく気がする。

 まるで実人生のように。

 たとえば私は、いま、その日々の中に、浪江の海を思う。

 とくに理由はない。しかしそれはただの引用よりも、きっと強い。人生について、愛について――なんて、まさか、そんな重く考えているわけではない。そんなに、みつめるな。結局それらは、関係のない何かに対しての、いっときの、よそ見なのだから。前方こそ注意。ムスタングのような高級車とはほど遠いトヨタの旧車を走らせて相双(そうそう)地区を訪った、あの日。小説世界の白馬のように、歌は世につれの歌謡曲のように、京都から博多までと歌われるくらいのかろやかさでN氏の碑から浪江の海まで、簇葉(むらは)の緑の光の中に駆け抜けた。