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苦しみを、人生の片隅へ

「噺家渡世の余生な噺」 第17回

苦しみを、人生の片隅へ

お客様からの祝い花(柳家さん喬・柳家小志ん親子会にて)

柳家 小志ん

執筆者

柳家 小志ん

執筆者プロフィール

いつか触れようと思っていたこと

 二〇二六年八月上旬。

 高座や旅仕事、いろいろな仕事や締め切りに追われながら、ありがたいことに忙しい日々を過ごしていた。

 私は、忙しくしていないと、どうも落ち着かないところがある。仕事が立て込んでいると、妙に元気になる。前回のエッセイで書いた中学校の同窓会も終わったばかりだった。三十数年前の自分を、ほんの少し取り戻したような気分も残っていた。

 そんな、いわば調子のいい数日だった。

 定例会のお知らせをするため、いつものようにSNSを開いた。

 すると、同輩の投稿が「おすすめ」として表示された。内容は、ある人が亡くなったことを受け、その人から生前に受けた仕打ち――「いじめ」について語ったものだった。

 投稿には、さまざまな反応があった。

 「死者に鞭打つのか」
 「家族への二次被害になるのではないか」
 「亡くなった人を、そこまで責める必要があるのか」

 一方で、

 「死んだからといって、したことまで消えるわけではない」という意見もあった。そして、その中に、私が以前から気になっていた言葉があった。

 「忘却は、最大の復讐なり」

 私は、この言葉を昔聞いたとき、そんな簡単に忘れられるものか、と思った。傷つけられた側は、そう簡単には忘れない。むしろ忘れたいと思うほど、忘れられない。それなのに「忘れればいい」と言われると、忘れられない自分のほうが悪いような気持ちになる。

 その日の私は、楽しい同窓会の余韻から、少し現実へ引き戻された。いつかこのエッセイで触れようと思っていたことを、綴るきっかけになったからである。

被害者が忘れなければならないのか

 日本だからなのか。それとも、人間というものは、そもそもそういうものなのか。狭い集団の中で起きたことについて、被害を受けた側にまで原因を求めることがある。

 学校なら「いじめ」と呼ばれる。社会なら暴行や脅迫、恐喝、窃盗などにあたる行為であっても、学校という場所に入った途端、「いじめられる側にも何かあったのではないか」という言葉まで出てくる。

 大人の社会なら、もっとはっきりと問題になることが、子どもの世界では、なぜか少し曖昧になる。「いじめ」と名前を変えてしまえば、問題まで小さくなったように思える。だが、された側にとっては、「いじめ」という名前になっているだけで、受けた痛みまで小さくなるわけではない。

 会社でも同じようなことがある。パワハラ。モラハラ。立場を利用した支配。

 「会社なんだから仕方がない」
 「昔はもっと厳しかった」

 そう言われているうちに、傷ついた側が、自分のほうを責めるようになる。

 家庭なら、なおさらである。親から受けた仕打ちの話をすると、こう言われる。

 「育ててもらった親の悪口を言うものではない」
 「もう大人なんだから、いい加減に許してあげろ」

 許せない人間のほうが、どこか未熟であるかのように扱われる。だが、許すことと、傷つかなかったことにすることは違う。忘れることと、なかったことにすることも違う。