女性講釈師の歴史をたどる

「釈台を離れて語る講釈師 ~女性講釈師編」 第47回

謎の女性講釈師・本荘幽蘭

 前述の三人が現れた昭和40年代以前になると、田邊孝治も指摘するように、江戸・文政期の名古屋にいた円山尼(えんざんに)、明治末期の大島伯鶴門下に大島朝玉女がいたことがわかっており、さらに二代目松林伯圓門下の圓月女(えんげつにょ)が明治25年(1892年)9月に春木座での講釈師の芝居(末広鉄腸『雪中梅』)に出演したことが『講談落語今昔譚』で確認できる。

 なかでも、平山亜佐子が『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)でも取り上げた本荘幽蘭(ほんじょうゆうらん)が、一人存在感を放っている。

 また、明治期に初代談洲楼燕枝に入門した若柳燕嬢(わかやぎえんじょう)を講釈師とする記述を目にすることもあるが、これは当時の言葉を借りれば、社会時評を「新講談風」に演じたことにあり、明治期の自由民権運動をきっかけにとすればよいか、講談会や女子講談会といった催しで行なわれた「演説」と同種の意味で使われていると考えてよいだろう。言ってしまえば、講釈師というより、「講演師」という言い方が適切かと思われる。

 ここではまず、経歴がある程度わかる女性講釈師、本荘幽蘭に注目してみる。その経歴を簡単に記してみよう。

 当時の女性のあり方からすれば、アクティブで波乱とも言える人生であるが、その間、講釈師をしていたことがわかっており、高座で演じていたのは、いわゆる古典講談の類いではなく、先にも記した新講談に近い、演説のようなものと考えるべきなのか。

 明治期には、政府による集会条例や讒謗律などの制定により、民権運動について自由に論じることができず、「オッペケペー節」で知られた川上音二郎が浮世亭○○(うきよていまるまる)を名乗って高座に上がったように、同じような流れをたどってきた人が講談の世界にも多く見られたとも考えられる。つまり、講談の形を借りて、自論(持論)を表出していた訳である。