NEW

第十三話 「誰のおかげで」

「令和らくご改造計画」

#7

 確かに、所属した落語家たちの手帳は真っ黒だった。

 毎日パンパンにスケジュールが入っている。しかし、その内容をよく見ると、やたらと営業が多い。午前中に老人ホーム。昼に学校寄席。夕方に商店街の催し。夜は居酒屋の二階。

 それらのギャラはいったん事務所へ入り、そこから何割かを引かれた金額だけが落語家へ渡される。その結果、一日に何件も高座を回らなければ、生活できるだけの金額にならなかった。

 以前よりはるかに忙しい。だが、収入は前より少ない。移動と高座を繰り返すうちに、稽古をする時間も、動画を撮る時間もなくなった。落語に集中するために事務所へ入ったはずが、以前より落語へ向き合えなくなっていた。

 やがて、売れっ子の師匠方には、高座とは関係のない仕事まで入るようになった。正体のよく分からない経営者たちの飲み会。投資家を名乗る人物の誕生日会。何の事業をしているのか誰も知らない会社の周年パーティー。

 そこで落語を演じるわけでもない。ただ席に座り、酒を注ぎ、経営者の話に笑顔で相槌を打つ。接待要員である。

 「これじゃあ、前より忙しいのに、稼ぎは少ないじゃないか」

 不満を漏らす師匠も現れた。

 すると売坊くんは、細い目をさらに細めた。

 「師匠……誰のおかげで飯食えてると思ってはるんです?」

 低い声だった。前座が真打に向かって口にしてよい言葉ではない。しかし、いつの間にか彼へ逆らえる者はいなくなっていた。

#8

 それでも我慢できなくなった、ある師匠が言った。

 「もう、事務所を辞めさせてもらいたい」 

 売坊くんは大きなため息をついた。

 「そうですか」

 そして事務所の奥から、分厚い冊子を持ってきた。

 「師匠。これ、契約書類ですね」

 机の上へ置く。

 「第143項を見てもらえます?」

 師匠がページをめくる。そこには、小さな文字でこう書かれていた。

 事務所を退所する場合、違約金として一千万円を支払うこと。

 「事務所を辞めはるんなら、違約金一千万円ですけど。お支払いいただけます?」
 「そんな金、払えるわけがないだろう。だが……辞めさせてもらいたい」
 「その下も読んでください」

 さらに小さな文字が続いている。

 退所後、五年間は落語家として活動してはならない。
 現在使用している高座名は、退所後、二度と使用できない。

 師匠の顔色が変わった。

 売坊くんは静かに笑った。

 「師匠、今後二度と『柳家』を名乗れんようになりますよ」
 「そんな馬鹿な話があるか!」
 「だいたい、うちを辞めて、この業界でまた落語できると思てはるんですか?」

 いつの間に、一前座がここまで大きな力を持ってしまったのだろうか。下手に逆らえば、業界から干される。落語家たちは、完全に事務所へ支配されていた。

 しかし、師匠方も負けてはいなかった。

 「それなら、もう落語は……やらない」

 所属落語家たちは、一斉に高座へ上がることを拒否した。ストライキである。演者が落語をやらなければ、事務所は商売ができない。

 一方で、落語家たちも仕事をしなければ収入がない。ここから、長い持久戦が始まった。芸人たちは、お互いの自宅に山積みになった差し入れのお菓子を分け合い、飢えを凌いだ。それでも腹が減った時は、そばを食べる仕草をして気を紛らせたりもした。

 そうして、半年が経った。

 ついに事務所側が根負けし、落語家たちは退所する権利をもぎ取った。違約金、五年間の活動禁止はなし。高座名も、これまで通り使用できる。こうして、商売亭売坊の芸能事務所は、めでたく解体されたのである。

 落語家たちは自由を取り戻した。これでまた、以前のように高座へ上がれる。誰もがそう思っていた。