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〈書評〉 浪曲、女子高へ行く (新井勝治 著)

「芸人本書く派列伝 クラシック」 第16回

浪曲を女子高へ

 第1部最初の「『芸術鑑賞会』の演目決定まで」章では、上記した国友忠との出会いから決断に至るまで、続く「決断から鑑賞会当日まで」では学校側に企画を認めさせるための苦心譚などが語られる。

 校内で発行された「芸術鑑賞会新聞」の1~6号までがそのまま掲載されており、単に演目を決めるだけではなく、新井が意を尽くして事前の浪曲啓蒙活動に励んだことがわかる。なるほど、十代になじみのない大衆芸能への関心を持ってもらうためには、ここまでの積み重ねがないと駄目なのか、と勉強になった。

 大看板であり、自らも大沢初一の筆名で多くの台本を著すなど、旺盛な執筆意欲を持っていた人なのだが、自身について書いた文章は1冊にまとめられていない。情報源として重宝するのは、唯二郎『実録浪曲史』(東峰書房)くらいなので、国友と実際に会って考えを聞き、その談話を再録した本書は、そういう意味でもありがたい1冊なのである。

 雑誌『花も嵐も』(花嵐社)1996年2月号~10月号で「私の浪曲史」という連載が行われ、国友が修業時代や、若手時代に出会った名人のことなどを書いている。連載時の肩書である「春陽会会長」とは、前述の残留日本人帰国活動のため国友が設立した団体名だ。

 初めに語られているのは、師である初代木村重友の月旦で、大変に厳しい人だったという。

 「芸は素質の無い者にはいくら教えたって無駄だから俺は芸は教えない。重友の弟子として何処へ行っても笑われないように育てる」が持論で「口より先に手が飛んで来る」厳しさ、あまりのことに「彼処は監獄部屋」などと陰口をたたかれ、他所の師匠は弟子が言うことを聞かないと「重友の所へ預けるぞ」と脅したとか。

浪曲師の戦争

 国友忠が重友に弟子入りしたのは1933(昭和8)年、15歳の時だった。もちろん殴られた。

 壮絶な体験である。初めは木村友栄(きむらともえ)、1939(昭和14)年に木村小重友となる。しかしすでに戦時下の世情となっており、1940(昭和15)年に小重友も入営して中国大陸に送られた。

 と言っても単なる一兵卒だったわけではない。少年期から記憶力が優れていた小重友は現地で中国語をすぐに習得した。その特技を買われ特殊勤務職員として中国人捕虜の教官に就いたのである。

 除隊となっていったん帰国したのが1943(昭和18)年、翌年に再召集されて再び大陸に渡った。そこからは芝清之『東西浪曲大名鑑』(東京かわら版)に「中国人二千名を引率して戦闘に加わった。東宝で映画化した『独立愚連隊』(岡本喜八監督、佐藤充主演)は彼をモデルにしたものであり、原案は彼の作である」とあるように、いわゆる諜報活動に身を置いていたらしい。

 この体験が、敗戦のため異国に棄てられた残留日本人問題に強い関心をもって取り組む姿勢につながったのだろう。