ない物ねだり ~小堀さんのこと~
「すずめのさえずり」 第七回
- 落語
古今亭 志ん雀
2026/01/27
ところで、東南アジアのどこかの国では、映画の登場人物がやたら悩んでいるらしい。なぜならその国の人々は「悩む」ことがないので、悩むということをフィクションとして消費しているのだそうだ。
この話が嘘か真かはともかく、自分にないもののほうがフィクションにしやすい、というのはあると思う。
そして地獄のような貧乏のどん底を知っているからこそ、人の優しさや温かみを描ける――。
私は苦労らしい苦労をしたことがない。
そりゃ前座の頃は自由はないし眠いし、お金もなかった。同じことを二度とはできまい。しかし、それとても、親に頭を下げれば、いつでも「普通の」暮らしに戻れるという、安全地帯に軸足を残したママゴトのような苦労であった。
そんな私は、人情噺を聞くと、「イヤイヤそんなふうに上手いこと幸せにはならないだろう」と、どうしても粗探しというか、どこか一歩引いた目で見てしまうのだ。
思えば前座の頃は、犬が人間になるという「元犬」が好きだった。人間になった犬をリアルになんてやりようがないので、開き直ってのびのび喋れたから。
二ツ目になると、色っぽいおかみさんが出てくる「紙入れ」を振り回していた。男が女を演じている時点で明らかにフィクションだったから。
今は悲惨な噺や怪談が好きだ。現実の自分は平和に暮らしているから。
師匠の志ん橋は言っていた。
「人情噺と滑稽噺なんて、そんな分け方はねえぞ。全部人情噺だ。人間を描いてるんだから」
そういう点では、幼馴染のおじいさん二人がケンカして仲直りするだけの「笠碁」などは究極の人情噺、全ての落語の中で最も難しいと思っている。たぶん一生できません。
またこれはテクニック的な話になるが、二ツ目勉強会である師匠にこう言われた(前にも書いたかもしれませんが)。
「もう君たちには江戸弁は無理だから諦めなさい」
まったくその通りだと思う。火の見櫓を「しのみやぐら」とか言わなくたっていい。いくら昔のアクセントや言い回しを研究したところで、口から出るのはやはり現代の共通語なのだ。
苦労を知らない現代人の自分が、現代の言葉で江戸明治を語る。いくら思い悩んだところで、そこから脱け出すことはできない。
だから私は、志ん生師匠が酒を飲んだようにプロテインを飲み(どちらも飲みすぎると肝臓がやられるのは同じだ。もうこれは酒だ)、とことん養生して、安全運転しながら落語家人生を歩んでいくことにしよう。
そこにスリルはないけれど、代わりに何かが出てくることを信じて。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
(毎月26日頃、掲載予定)
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